二冊目の日記

メモ①

大人になるというのは
すれっからしになることだと
思い込んでいた少女の頃
立居振舞の美しい
発音の正確な
素敵な女のひとと会いました
そのひとは私の背のびを見すかしたように
なにげない話に言いました

初々しさが大切なの
人に対しても世の中に対しても
人を人とも思わなくなったとき
堕落が始るのね 堕ちてゆくのを
隠そうとしても 隠せなくなった人を何人も見ました

私はどきんとし
そして深く悟りました

大人になってもどぎまぎしたっていいんだな
ぎこちない挨拶 醜く赤くなる
失語症 なめらかでないしぐさ
子供の悪態にさえ傷ついてしまう
頼りない生牡蠣のような感受性

 

──茨城のり子  汲む

 

 

ドナチ伯は私と踊ってくれた
一晩中私と踊ってくれた
二曲目のワルツで私は少しめまいがした
三曲目のワルツで私の右手は少し汗ばんだ
四曲目のワルツで私の頬は少しドナチ伯の肩に触れた

その次の曲の時私はもう疲れていなかった
私の足はドナチ伯の足だった
私の汗ばんだ右手はドナチ伯の手だった
その次のワルツの時ドナチ伯の息は私の息だった
ドナチ伯の中に私は踊りながら入って行った

 

──岸田衿子  ドナチ伯爵と私

 

手紙

うす汚れた小さな本を
日がな一日読んで
おれも遠いマルセーユから
胸いっぱいの手紙を出したくなった。
若さと苦しみ、
それからわれわれの勇気について語り得る友、
巴里の、サン・ルイ島
あの貧しい木靴つくりの息子へ、
一人の娼婦が
泣きながら書いたような切ない手紙を

 

カフェの対話

よしや、ここにも病気と貧乏があり、
それからより一層手きびしい世間があっても
今日、さわやかな驟雨のように
いきいきとおれの心を洗って行くものは
モンパルナスの夕ぐれのカフェ、
そのカフェの片隅にしょんぼり座っている
やさしい二人の対話。

 

──菅原克己  「ビュビュ・ド・モンパルナス」を読んで

 

 

愛する人
帽子をかぶらずにぼくをふりむいておくれ
木もれ陽があなたの額におちるとき
ぼくは詩の初めての行を書くだろう
だが微風があなたの髪の匂いを運んでくるとき
ぼくは詩を捨ててあなたにくちづけするだろう

 

──谷川俊太郎 詩

 

 

労働者の指導者である政治家レーニンは、彼がそれにたいして働きかけることが可能であるためには、そのなかで働きかけなければならない情況の内部にいることはたしかです。/彼は、彼自身がそこにとらわれておりまたその当事者である力関係の方向を変えさせるためにも、反省するほかは何もしない。

 

──L・アルチュセール『科学者のための哲学講義』