二冊目の日記

Feb, 2023

2/26sun

昼前に起床。

久しぶりに河野さんと会ったら、髪の毛はすっかりなくなり目尻の皺が70歳のお爺さんみたいになっていて、そんな風貌のせいか話し方まで老人のそれになっていたというさっきまで見ていた変な夢を思い出しながらシャワーを浴びていたらボディタオルにシャンプーをつけそうになった

前々日くらいにビストロさての話が出たので、ランチを食べに行く。2品分のレシピをもらう。古本屋で数冊本を購入。

あながち間違っていないなという落とし所が最近妙に多い。

夕方からドン・シーゲル『ドラブル』(1974)を菊川ストレンジャーで鑑賞。

この冬食べたもの

以下時系列順

トマトスープ(上海味道@水道橋)

大きくて甘い人参がごろっと入っていた
晴れた冬の水道橋の空気が気持ちよかった

 

・グリークサラダ&ムサカ(自宅)

感動的に素晴らしいディナー

 

・鰯と柚子のパスタ

旬の食材を使う楽しさ

 

AMARO DELL’ERBORISTA VARNELLI(ピコン@山下)

みーくんが薦めてくれた薬草酒

 

・ブリック(自宅)

クリスマスイヴに作ったチュニジアの春巻き
春巻きの皮に裏漉ししたなめらかなマッシュポテト、クミン・シナモン・コリアンダー等と煮込んだミートソースを真ん中に窪みができるように並べ、生卵を落としたらこぼれないように綺麗に包んで揚げる
手づかみでかじり付いたらとろっと半熟の黄身が溢れ出る
チュニジアでは花嫁の母親が花婿のために振る舞うもので、花婿は中の卵がこぼれないように食べるのがマナーらしい
信じられないほどうまかった

 

・そば(おばあちゃん家@足利)

 

・にしんそば(加賀@初台)

 

・プレヤサ(ロス・バルバドス@渋谷)

チキンをレモンと玉ねぎと煮込んだセネガル料理

 

・梅と赤ワインのパスタ(自宅)

この冬のスペシャリテ
微塵切りにしたニンニクと一緒にベーコンをカリカリになるまで炒め、コップ一杯の赤ワインでデグラッセ 固めに茹でたパスタに赤ワインをしっかり煮含ませてたっぷりのチーズとバターで濃度をつける

 

・アッシェパルマンティエ&クスクスのサラダ(自宅)

クスクス好きになりたい

 

・アボカドのスープ(自宅)

ミカサトゥカサのあの味には程遠い…

 

・チーズパンプディング&朝食プレート(自宅)

夜に食べたが朝食の良さに気づいた
主食をガツ食いするのではなくスープやサラダも交えて適量ずつ食べる満足感

 

・目玉焼きのせご飯(遠藤さん家

固めに焼けた目玉焼きをご飯の上にのせてかき混ぜてから食べる
韓国ではスタンダードな食べ方らしい
おばあちゃんが昔よく作ってくれた卵ぐじゅぐじゅご飯に似た味

 

今月のプレイリスト

Magalí Datzira "Des de la cuina" (2023)

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スペインのダブルベース奏者で"Des de la cuina"="キッチンから"という意味らしい。

ダイニングテーブルで書き物をしているところとか、最後の方の膝にプレートを置いてトスターダみたいな料理にかぶりつく彼女をキッチンの入り口から映したショットがとても良い。
ダブルベースの、幽かに音程が上下したままで霧消していくサステインの音には、ただただ心地いい手触りがある数歩先で、オリヴェイラの訥々とした語り口から漏れる、言葉として成形される前の「音自体」というような━━吉増剛造のいうところの「赤子のような寄辺なさ」のような━━息遣いにもある確固とした抵抗の力が、その陽性の音色の陰に僅かに感じられる。

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そのようなものとしての根源を掴むために、それを妨げるあらゆる「フィクション」を、おそらくは「制度」と呼び慣わされているもの、……その最大のものはやはり言語でしょう、……その向こう側、あるいはその奥底か下底にあるものと出逢ってみたい。

***

「制度」というものは、どうしても源初のなにものかの起ちあがり、……わたくしがその底にふれようとしているもの、赤子のような寄辺のなさ……を、「作品」として固定させた瞬間に、固く凝固させてしまいます。作品とは、喩えて言えば蝶の標本のようなものではないでしょうか。蝶は、ひらひらと飛んでいたり、花の蜜を吸っていたり、あるいは交尾をしたりします。もっと言えば、子供のときは芋虫で、葉を囓って、糞をどんどん落とします。そういったもののすべてが「蝶」なのですけれど、展翅された標本では、……たとえいかに美しい姿にされていても、……そのような蝶の「ほんとう」、その赤子のような寄辺のない「瞬間」は、見いだすことはできません。

***

わたくしは、何か根源のようなものを求めて、がりがり紙に字を書き付けたり、目をつぶってインクをぶちまけたりと、ある「行為」を行っているわけですが、重要なのはその行為自体、それを行っている過程の方に、そのまた影の方にあるのであり、あるいは虚の歩行の方にあるのであって、出来上がった「作品」というのは蝶の標本のようなもの、一種の抜け殻なのかもしれない。

 

吉増剛造『詩とは何か』(講談社現代新書、2021年)、245,246頁。

オリヴェイラは↑で"What the cinema is draw a shadow of that moment. "(that moment=既に過ぎ去ってしまって、もはや現実に本当に存在したかどうか確信がもてないmoment)と語っている。

実際にはあったにもかかわらずなかったと思われているもの、もしくは誰かの都合でなかったことにされているものを、確かにあったのだと目の前に提示して見せること。

こうしたことをラディカルかつ平熱で(←ここ大事)やっているのがストローブ=ユイレなのかとも思うが、ここらへんのことはセルジュ・ダネー「眼のための墓場」(『カイエ・デュ・シネマ・ジャポン/映画の 21 世紀VI ゴダールストローブ=ユイレによる映画』所収)や小澤京子「ストローブ=ユイレ、量塊的映画」(『シネマの絶対に向けて』所収)に詳しい。

 

Kitchen "Foggy Trees"(2019)

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Hope is a picture of me kneeling on your couch

In a dress like a feather with some red around my mouth

Pull me down, I'll sink here with the stupid little thought

You're so kind but if I see you I will see just how I'm not

 

***

 

When the winter ends 

I will see you once again

Bright as I can be

それとこれとは別の話で、ここ最近になって、Hope is a picture of  xxx の xxx が、ベッドの上で天井を見上げながら縋り付くものでも、松竹から西早稲田のアパートへの帰路で現実とスクリーンの中の出来事のあまりの差に打ちひしがれながらのしかかってくるものでもなく、もっと軽くて楽しい何かになった節がある。自分の中で "hope" の語義が変わったらしい。
友達の家で思いもしなかった角度から笑いのツボを突き刺してきたり、道を歩いているときに微風みたいに頬を掠っていったりと、後からやってくるときもよくある。
写真をよく撮る人の気持ちがなんとなくわかった。

彼のTwitterを見たら"been meaning to dive deeper into burt bacharach's stuff. always liked songs of his but there's a lot of great stuff. "というコメントと一緒に"The Balance Of Nature"のリンクを貼っていて同じ気持ちだった

 

Television "Prove It"(1977)

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彼のソロ作『Warm and Cool』に入っている"Ore" のパームワイン・ミュージックにも通ずる軽快さとそれだけでは到底ない変なアッパーさの感じや、ライブ盤『Live at the Old Waldorf』の"The Dream's Dream "から"Venus"に入るところのお決まりのかっこよさはしっかりやるようなところが好きだった。
晴れた日の午前の空気みたいな、何でもないけど妙に嬉しく清々しく心に残っている映画のワンカットみたいなProve It のギターソロ(3:17あたり)も。

 

その他↓

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